ブルーとピンクを統合するために

 

先日仕事の帰りに、よく立ち寄るデパ地下を通り抜けた先にある、とある大型書店に行った。この書店は、7月には閉店になるそうで、紙の文化が廃れていくことを残念に思うとともに、仕事帰りの楽しみが減るのも残念だった。夫と娘はすでに閉店していると思っていて、私が確かにその書店で立ち読みしてきたと言っても、デパ地下を通り抜けて異次元空間に入り込んだのではないか…と言っていた。

 

それはそうと、そこで立ち読みした本の中に、「不登校の子供たちの復学率が高いサポート校」についての記事があった。なんでも一般的なサポート校からの復学率は約半数位・・本当に適応して将来自立した社会生活を送っていける子どもたちはもっと少ないと思うのだが・・こちらのサポート校では、それよりもっと高い率で復学しているそうだ。

 

そう簡単なはずではない。何が違うのだろう。

 

思春期以降の不登校の子供たちに接する基本的な態度としては、その子の自我を育てるという意味で・・一方では親の自我も育てるという意味で・・生活全般についての決定を子どもに任せる。別に不登校の子供たちだって好きでそうしている訳ではなく、自分でも何故だか分からないうちに「普通に」できなくなっているのだ。私たちも心身の活力が落ちこんでいる時、そっとしておいて欲しいと思うし、たとえ遊んでいるように見えようと、怠けているように見えようと、そうしている事で自分の中で何かが醸成されてきて、次の扉を開けることができるようになっていくのだろう。

 

でも扉を開けるには、絶妙なタイミングとともに、その時必要なもうひと押しがいるのだ。

 

それは何かというと、「この子は〜だからできない。」ではなく、「この子は大丈夫。」と周囲が絶対的な信頼を持つことだそう。その思いによって次の扉を開けるための一歩が踏み出せる。

 

ここで、昨日の紫陽花に象徴される、「ブルーとピンクの融合」を思い出した。何を思ったかというと、ひとは内側にある熱い思いがわきあがったとしても、それを抑えたり、冷却したり、周囲に溶け込ませようするベールをまとっているということだ。それは、一歩を踏み出して扉を開けようとする時に、即座に自分で自分にダメ出しをする・・。

 

自分の中で拮抗しあうこの二つの力を統合するのは、「うまくいくだろうか」ではなく、「多分うまくいく」でもなく、「うまくいくのは当然である」と信じる力なのだ。

 

単に「熱い思い」だけではなく、それを「評価する視線」だけではなく、それらを統合するものとして「自分の力強さを認める」ことが必要なのだろう。浮上の原理がここにもあったと思ったひとときでした。

 

 

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