孤独を楽しむ

最近「孤独を楽しむ」がマイブームになっています。そのきっかけは、今月初旬のコンサートの帰り、一緒に行った友人が突然言った一言にうれしくなってしまった事に始まります。「私、友達多いように見えるでしょうけど、本当は少ないんですよ。子どもにも友達なんていなくたって生きていけるって教えているんですよ~」。うん、私と同類だ。後でよくよく考えてみると、学校でお子さんになにかあったのかもしれませんが・・。

 

私の記憶に残る原風景は、一人の女の子~それは自分なのですが、田舎の家の庭で一人でしゃがみこんで草とか虫とかをジ~ッと見ているというもの。小学校の遠足の時も、バスの中で友達とおしゃべりしているより、外の流れていく景色を見ているのが好きでした。だから「黙ってて」と言ってもしゃべり続ける友達の話を「うるさいな~」と思いながら聞いていました。今では気の合った友人とおしゃべりするのは楽しいです。でもそうでない場合には、波長を合わせるようにできる限り努力するのですが(ここまでは日常的に誰でもやっていることでしょう)、臨界点を超えると自分の世界を形成してその中に入り込んでいます。そうです、その臨界点がどの程度のところにあるかが問題なのです。基本的に一人で何かに没頭している時間が好きで、この貴重な時間よ、いつまでも・・と思います。でも、意外にそれを必要以上に意識しているところが、あやしい・・あやしい・・。

 

先日行きつけの書店で、通りすがりに目に留まった本がありました。諸富祥彦著「孤独であるためのレッスン」です。

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

 

 著者は心理カウンセラーであり、大学教授でもあります。題名からして専門家が一般読者向けに分かりやすく解説したものという印象です。一部、違うな~と思う所もありましたけれど、著者は、孤独であろうという姿勢を、自分の心象体験を正直にというか赤裸々に告白しながら書いているところが意外であるし、三次元にとどまらないものの見方をしており、孤独であることを積極的に評価しているところが新鮮でした。

 

プロローグにはこう書いてあります。

「孤独は、決して、避けるべき否定的なものなどではない。孤独は、現代をタフに、しなやかに、かつクリエイティブに生きていくために不可欠の“積極的な能力”である。これからの困難な時代を、幸福に生きるために、現代人がトレーニングしてでも身につけるべき新たな“能力”である」

 

また、本文にはこうも。

「 “深さ” の次元が人生の価値尺度として重要視されるとき、不可欠となるのが、孤独になる能力、充実した孤独、豊かな孤独をエンジョイできる能力です。そうなると、どうやって孤独な時間を確保するか、孤独になり自分の心と対話し、想像をめぐらすような時間をどう豊かにするかが、人生を豊かに生きていくために必須のものとして認識され始めるはずです。“深さ” の次元で充実した人生を送るためには、孤独の能力がどうしても不可欠となるのです。もうすぐそんな時代がやってくるはずだし、やってこなければ、成熟社会における日本の未来はない、と思います。」

 

それは本当にそうだと思います。孤独な時間がなければ、深く考えたり、何かを創造したりすることはできないでしょう。歴史に名前が残るような人物は、孤独な時間が必ずあったものと思います。しかし多くの人は、忙しくしたり人付き合いを多くしたりして、孤独にならないようにしているのも事実です。

 

 私の幼少期(小学生まで)は、あまり周りの目を気にすることなく1人でいることを十分楽しんでいたと思います。小学校に入った時のことです。図工の時間、私は風景とか動物とか模様を描いていたのですが、人が登場しないので描くように言われ、それ以来人を描くようになりました。当時、人を描くのは恥ずかしいような気がしていたのです。「好きな友達と数人のグループを作って」と言われると、余った人のグループに入っていたことが多かった。私は決して友人が少ない訳ではなく、毎日学校が終わると友達と遊びまわっていたのですが。私たちグループのメンバー!と言えるほどの意識を持っていなかったのでしょう。

 

中学生以降ですね、「孤独」であることを強く意識するようになるのは。特に日本人は、空気中に「みんなと仲良く」「みんなと同じ」「みんな一緒に」等が漂っているので。特に中学校ではそれが高濃度です。日本人は諸外国より孤独を感じやすいデリケートな民族であるように思います。なに不自由なく1人で居られた幼少時は、私にとっては楽園でした。  Summer Time・・

 

それから、数十年という長い年月をかけて、周りの人々と自分の孤独感との折り合いをつけて、そのようなものが漂う日本の空気を呼吸しても生きていけるようになってきたのでした。孤独の時間をここちよく過ごすために、実はかなりの意識的な努力をしてきたため、上記の「あやしい・・あやしい・・」という発言になるわけです。

 

幼少期は、自分の内側から語りかけてくるものをそのまま受け取り、自分のものとして認め、楽しむことができていた。そして、成長するにつれて、自分の声より周囲の声の方が大きくなってくる。それが、自分の声だと錯覚してしまうが、なにか違和感を感じる。そこでどうするかは人様々でしょう。私はそこで自分の周りに壁を作っていました・・。壁は年月とともに風化してくるものではありますが、分厚い壁で自分が傷つかないようにしているだけでは孤独な時間を楽しめない。かといって、外部の波長に限りなく合わせようとするのも疲れてしまいます。今、自分の外側からの声より自分の内側の声を注意深く聴いてみようと考えています。

 

ところで先日、Healing Space Zaraian の遠隔エネルギーワーク、スカイリア ~ ル・バーブ ~ を受けました。ワークの特徴は、「高周波のこのエナジーの洗礼は以降、他者との境界線を明確にし、自身の個人的なパワーを表現することのサポートになるかと思います。」ということです。

ワーク1日後の早朝、たっぷりしたここちよい一人の時間が持てたので、「この時間がいつまでも続いてくれますよう・・。」と思いながら感想文を書いていました。

詳細は Zaraian ~五次元の草原に載せていただきましたので、よかったら読んでみてください。ブログの題はほとんど同じですが、同じ時期にブログの下書きを書いていました^^

 

 「レムリア時代の初期、まだこの地球が超自然的にも、エネルギー的にも整理開拓されている途上の時代だと思いますが、この空中都市は宇宙から地球を育むためにやって来た存在たちのグループが住まう、楽園のように空に浮かんでいました。」

この部分を読んでいると、レムリア期の整備開発途上の時代が、自分の楽園的幼少期以降にダブってきます。成長するにつれて複雑になってきた自分のシステムを浄化して、元々持っていたパワーを取り戻せるかもしれない、という気分です。

 

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   27日朝、今年初めての睡蓮が咲きました!

 

http://herbteatime.hatenablog.com/